をかしきことは、春の雨のあとなり。
庭の苔、水玉をたたへて、露よりもおほく光る。風、まだやはらかく、簾のうちにゐて、硯の水に筆をひたし、もの書くほども心地よし。
また、夜半(よは)にて、燈(あか)きうすくして文(ふみ)をひらく時、墨の香、いとゆかしきものなり。かすかに障子をすかして、遠く犬の声の聞こゆるも、さびしき中にをかし。
人の心は、ことばのうちに見ゆるものなり。たとへ、笑ひて語るも、まなざしの奥にひそむ憂ひを知るは、花のほころびの間に見ゆる葉のやうなり。
さらに、秋、月のいと明かき夜に、ひとり硝子の器に水をくみ、月影をうつしてながむれば、しづかなる中に世のあはれおほく思ひ出づ。
冬の朝、霜の白く降りたるを、まだ人の跫音(あしおと)もせず見やるほど、いと清げなり。指先のいとつめたくして、紙を繰る音までも、冴えたる空にしみ入りて、もののあはれおほし。
春の宵(よひ)、日暮れてまだ空のうす明かきを、花の下に立ちて見やる。花びらの、風にもあらで静かに落つるさま、いとゆゑづきたり。
夏の雨の夕暮れ、庭の池に波たちて、灯籠(とうろう)の火のかげゆらめく。物の形みな淡く、ただ雨とひかりとが世をつくるやうに見ゆ。
秋の昼つかた、風にのりて干したる衣の香の、廊(ろう)のかたに漂ひ来るもをかし。
冬の夜、炉(ろ)の火の赤き中に灰の白く沈みたるを見て、年の暮れの近きを思ふも、いとしみじみなり。
人の書きたる文(ふみ)の、紙はわづかに黄ばみ、墨の跡のにじみたるを手に取る時、その人の息づかひまで覚ゆるは、たぐひなきをかしさなり。
遠き山の端に雲のかかりて、ただ一すぢの光さし入るを、簾のあいより見出づるとき、心の中にひそかにうれしきものあり。
子どもの笑ふ声の、庭にひびきて消え入るほど、何の憂ひもなき世のやうに思ひぬ。
秋の夜半、文机(ふづくえ)の上にひとつ燈(あかり)置きて、古き物語を読みゆく時、ふと外の虫の音に気づき、筆をとどむるもをかし。
夏の朝まだき、露に濡れたる朝顔を見やるとき、その青き色、空よりも澄みて、いとあはれなり。
春の昼つかた、ひとり庭に出でて、梅の香のただよふ中に茶をたて、湯気の立つさまを眺むも、心やはらぐ。
秋、野辺にて薄(すすき)の穂ゆらぎ、空の色淡き夕暮れは、ことさらに物思ふを誘ふなり。
冬、雪のいと白く降りしきる日、障子のうちに籠もりて、遠き友に文をしたためる、いとよきほどなり。
春雨の音を聞きながら、几帳のかたに凭(もた)れてまどろむほど、夢とうつつとの境(さかひ)もをかし。
夏の宵、蛍の飛びかひたるを、手にすくはむとしてすくはれず、ただ光の消ゆるさまを追ふも、はかなきがをかし。
秋の夕暮れ、風の音高く、柿の実の枝ゆらぐを見やるとき、年の移ろひの早きを覚ゆ。
冬の明け方、まだ星の残る空に月かすかに見えて、夜と朝とのあはひなる景色、いとめづらし。
人の贈りたる香袋(かうぶくろ)の、開くときの香の立ちのぼるも、古き縁(えにし)を思ひ出づる心地してをかし。
舟に乗りて川をくだる折、岸の柳の影、水にゆらぐを眺むるも、世の憂さ忘れらるる。
市のにぎはひの中に立ちて、人の声や物売る音を聞きわけるも、また別の趣あり。
山里にて、薪をくべ、湯を沸かす煙のたなびくを見て、冬のあたたかさを知る。
秋の初め、虫の音はじめて聞こゆる夜、ふと襟を合はせて空を見上ぐる心地、いとおもしろし。
春の終り、花びら尽きて葉の色まさるころ、風にそよぐ音を耳に入るるも、もののあはれなり。
夏の午後、遠く雷の音近づくとき、雲の色の重くなるを眺めつつ、雨を待つも、また楽し。
冬の夕べ、唐衣の袖に炉のぬくもりを受けて、外の寒さを思ひやれば、いとありがたし。